2012年11月26日月曜日

大規模講義を、どのように実施するのか(4)参加型

大規模講義でワンツーワンを実施する次の仕掛けは参加型授業である。200人以上をどうやって参加させるか、そこにこそ大道具、小道具をうまく使う必要がある。
たとえば、バーチャルコーポレーションの授業の時だ。これは、企業の業務を社内で実施するか外部に委託するかの基本的考察、いわば内外製の意思決定問題である。
ここではケーキを家で作るか、店で買うかの検討をする。
学生に向かって、どっちがいいか聞く。手を挙げてもらおう。右と左の様子を見て、多いほう、たとえば、右半分が買ってくる、が多ければ、こちらが、「買う」グループ、左を「作る」グループとする。そして理由を考えさせる。もちろん、全員に発言してもらう。
2人くらいの学生を指名して、書記を依頼する。黒板に、学生が答えた理由を書いてもらう。
買ったほうがいい理由、すぐ食べれる、欲しい数だけ買える、があがる。これは当然、設備投資が不要、早期に顧客ニーズに対応可能なことを意味する。作ったほうがいい理由、自分の好きな味を作れる、これはカストマイズのメリットを意味する。
買ったほうがいい理由、味がいい、そう専門的知識が蓄積されている、作ったほうがいい理由、心がこもっている、作り手と食べる人の交流、まさしくパートナーシップを意味する。
買った方がいい理由、安い、作ったほうがいい理由、安い。必ず両方からいってくくる。これはどうしてか、原価計算の仕組みを解説する。自分で作るときは、材料費だけ考えて、自分の人件費を考えない。買ってくるときは当然、職人の人件費が入っている。これは全部原価と直接原価の理論で説明する。
このように、知識自体は普通の授業で教えているかもしれないが、自分の発言から導き出される知識は、より記憶に残りやすい。自分のアクションと知識を結びつけることこそ、ワンツーワン、参加型授業の基本的コンセプトだ。

2012年11月21日水曜日

大規模講義を、どのように実施するのか(3)始まりは

 なぜ、講義の20分も前に教室に行っているのか。もちろん、PCの準備は時間がかかる。windowsの立ち上げ、ネットの接続、教材のダウンロード、などなど10分以上はかかる。だから、授業の間が10分しかないのは、問題ではあるのだが。
 しかし、基本は、教師が学生を出迎えるためである。学生が揃った後に、やや遅れて教員が教壇に立つなんで、私のルールにはない。迎えながら、おはようという、言わない学生、声の小さい学生には、挨拶を促す。そして顔色をみる、元気?、寝むそう、などなど。そこからすでにワンツーワンが始まる。先週、休みだった子には、どうしたの?風邪でもの引いたの、と聞く。出席など取らなくても、いつも出席している学生の顔はおぼえている。座る場所もおぼえているから、いなければ休みだし、他に移動していれば何かあったのと、声を掛ける。自分を気にしてくれていると感じてもらうためだ。そのための20分間だ。
 この間に、学生は、今日の日経新聞から、興味のある記事のタイトルを黒板に書いてもらう。4から5つくらいでてくる。その時間、教室を一周する。スクリーンには、日経新聞の電子版が表示されている。最新の円ドル、現在の日経平均株価なども映し出されている。前に言った大道具、小道具が揃ってくる。そして、教室を一周回ってから、今日の日経新聞を黒板に書かれた記事を中心に解説する。当然、経営情報の授業だから、それに関連して、まとめる。
 たとえば、円が高くなっていれば、輸出、輸入どっちの企業が影響を受けるか、企業名でいうとどこか、グローバルな企業はどうするか、連結決算にどう影響するかという話題になる。もはや会計情報は、グローバルに取らないといけないとも補足する。赤字の会社の記事があれば、こういうのを知らずに就職志望してはいけない。リクナビだけに頼る就職活動は危険だと述べる。
 新聞記事は、最新の生きた情報を伝えるもので、学生に、自分の問題なのだということをうまく伝えたい。

2012年11月20日火曜日

大規模講義を、どのように実施するのか(2)ワンツーワン

大規模講義をワンツーワンに実施する、これが、私の目標であり、基本的スタイルである。完全な個人授業ができるわけもないが、可能な限り、個人にアドレスする授業を実施したい。
その際に、私のことだから、もちろん、eラーニングを活用するのだろうと、思われるかもしれない。答えは、yesであり、noである。eラーニングは、必須条件ではあるが十分条件ではない。eラーニングを実施すれば、必ずいい授業ができるのではなく、いい授業を実施するのにeラーニングは効果的なツールで、私は、不可欠であると考えているからである。
大規模授業のワンツーワンの実現の基本は、まず、学生に、自分に向けて授業が行われている、と感じさせることであり、そこに、十分な教員と学生のコミュニケーションが確保され、授業に参加しているという実感を持たせることである。したがって、人数が多いから、学生と話ができないというのはスタート時点で間違っている。どのようにしたらコミュニケーションが可能になるかを考えることである。しかし、学生と、きちんと話ができない教員は決して少なくない。学生には対話力を求めるけれども、教員自体が、会話能力、きちんと話ができない人が少なくないからである。
さて、大講義授業をどう実施するのか。まず、第一に、遅くとも授業開始20分前に教室に入っている。なにをするのか。そこから始めよう。




2012年11月12日月曜日

大学を、市場開放すべきか、真紀子発言をめぐって

 三大学の申請を不認可した後、一転、認可するなど、迷走はばかばかしい限りだが、このなかで、真紀子批判として、大学が多すぎるから、認可基準を厳しくするというのは間違いで、自由化し、市場に任せれば、結果として淘汰されるから、規制を強化するのは反対だという意見が少なくない。数多くあっても、学生が選ぶことで、質の悪い大学、経営力が低下している大学は学生から選ばれないから、市場に任せるべきという主張だ。
 この通りなら、規制は不要とさえ思える。しかし、本当にそうなのか、市場、学生は正しく判断できるのだろうか、大きな疑問があるのも間違いない。
 第1に、高校生は、大学の情報を正しく把握できるわけではないということである。授業の中身は、受講してみなければわからないし、世評も、外形的な評価であって、授業の中身がどうかを評価できない。受講しているわけではないからである。偏差値は大学の質を表すのではなく、入学した学生の質を表すだけである。さらに、推薦入学を対象外にした一般入学の学生の成績である。
 第2に、東京一極集中の弊害で、異常に東京に学生が集まり、地方には優れた教育をしていても学生が集まらないのが現状である。多くの学生が集まる東京の大学と、あまり集まらない地方の大学で、教育の質の大きな相違があるとは思えない。地方の大学のほうが経営は大変だが、学生をしっかり丁寧に教育している大学は少なくない。いわば、経営の優れた大学に学生が集まるのではなく、学生が集まった大学が経営的にも改善するのである。
 このように、市場に任せれば、大学間の格差、都会と地方の大学の格差は、拡大する一方である。努力の結果、格差が生じるのではなく、また質の相違の結果、格差が生じるのではない。したがって、そこには、なんらかの規制、政策誘導を行わなければ、学生が集まることにあぐらをかいて改革に不熱心な大学が残り、必死になって改革を進めている大学が閉鎖されかねない。その結果、大学の教育改革は進まず、国内の経済的な格差を大学教育が助長することになる。

(執筆中)

2012年11月7日水曜日

大規模講義を、どのように実施するのか(1)ワンツーワン

教育は、字の通り、教え育むである。教えるとは、教師が知識をしゃべるだけでなく、学生が理解したかどうかまで、把握することが、教える、である。そして育むとは、個々の学生が育つよう、成長するように、指導する、ことである。それは教室の大小、学生の多少とは関係ない。つまり、学生個人を対象として教育は行われるはずである。
このように、私は、本来、教育とは、ワンツーワンであるべきと考えている。しかし、そんな大勢を、個人個人に教育するなんて、不可能だという反論があるだろう。大学教育は、家庭教師じゃない、個人指導じゃないというだろう。しかし、ワンツーワンは個人指導と同じ意味ではない。個人を個人として意識し尊重することである。大事なのは、学生が、教員は自分に向いて教えてくれていると感じさせることにある。
教壇から学生に向かって話すだけではもちろんワンツーワンになりようもない。質問するだけでもワンツーワンではない。前回、どう答えたか、それが、次の質問で、どう成長したかを把握しなければワンツーワンではない。教育の目的は、学生個人がいかに成長したかを実感させることにあるからだ。
クラス、100人をマスとして知識を投げるのはワンツーワンではない。個人に向かって知識を届け、その反応を確認しなければ、ワンツーワンではない。
ではどうするのか。教室だけではなく、複数のチャネルを活用し、常に個人にアプローチするのである。もちろん、完璧にできるわけはないし、全員が常に反応してくれるわけでもない。しかし、個人に向かうだけで、学生の顔つきは変わる。そんな瞬間を積み重ねていくことでワンツーワンに近づく。もちろん、そのバックオフィスにIT、eラーニングがプラットフォームとして装備されていなければ、教員の負担は膨大になることはいうまでもない。

2012年11月5日月曜日

マンモス授業は必要悪か(3)

 さて、はたして大学にとって、大規模教室での講義はほんとうに必要悪なのか。
従来の大学のビジネスモデルで考えれば、大規模講義で大半の収益をあげていることは間違いない。質が低下しようとも、それなしに大学経営は成立しないことは明らかである。したがって、必要悪と見られても不思議ではない。しかし、それを教員自身が、軽蔑するのは、いわば天に唾する行為であって、そのような授業を担当している教員に、感謝すれこそ、卑下することは間違いである。
 しかし、重要なことはそこではない。これからの大学のビジネスモデルに関わっている。少子化のなかで確実に学生数は減少し、その減少分をどこで埋めるのか、あるいは収益を増やしていくのだろうか。もちろん、他大学と競い合って奪い取るという選択肢もあるだろう。しかし、本質的には新たな学びの需要を創出するしかない。具体的には、今の学生をfulltime studentとするならば、社会人などのpart-time studentを増加させるしかない。
 その需要は、今の学生のように100万円/年も支出しはしない。もちろん、ビジネススクール、専門職大学院のように、200万円/年も考えられるが、その需要は決して多くなく、これからは過当競争が待っており、価格引き下げが起こり、費用対効果は決して高くなく、採算を割ってしまう可能性がある。
 米国では、MITのオープンコースウェア、、スタンフォードのUdacity、Courseraのように、ネットを活用したコースのオープン化が進んでいる。ここに新たな需要があることは間違いない。重要なことは、ここでは、1人の教員がゼミのように10人程度でクラスをマネジメントしていたらとても採算に乗らないことだ。ネットを有効活用することで、1人の教員あるいは1チームが、数100人、1000人、1万人のクラスを運営することが求められるようになる。それができる教員を今から養成する必要があるのだ。大規模授業を運営するノウハウが、ここで生かされる。シナリオ、大道具、小道具を駆使して、大勢の学生の満足度を高めるという能力が、不可欠なのだ。
 マンモス授業は必要悪か?、違う、これからのひとつの大学の有力なビジネスモデルなのである。そして、それができるスキルをいまから育成する必要があるのだ。

2012年11月3日土曜日

マンモス授業は必要悪か(2)

小規模の教室での授業が望ましく、大規模教室は教育の環境には向いていないという人がいる。しかし、それは正しいのだろうか。異なる授業には、異なる教育方法を取り入れるべきなのだ。小規模での授業は、教員がたいして努力せず、話をしていれば学生が静かに聞いているので、勉強が進んでいると教員のほうが思っているだけかもしれない。
ギターの弾き語りを小さなクラブで演奏している時は、PAもそんなに意識せず、聴衆も目の前にいるから、演奏しやすいし、聴衆の反応を見て、適宜、柔軟に内容を変更できる。
しかし、それをそのまま、東京ドームで演奏したら悲劇だ。顔は見えないし、声は聞こえない、聴衆はあくびをしてしまう。そこには、大道具、小道具、バックバンド、大画面スクリーン、そしてディレクターやミキサーなどのスタッフ、さらに照明、そしてシナリオが必要になる。
おんなじことだ。大規模教室での授業を小規模教室と同じように行ったら、学生もあくびだし、すぐにスマホの画面に目をやる。少なくても、マイク、大道具、なにより授業のシナリオが必要だ。教員も、話し方自体を変えなければいけない。その訓練を受けていないから、上手にできず、苦手になるだけのことである。
FD、インストラクションデザイン、メディア、ITを駆使した授業をするのは当たり前である。それをせず、苦手だというのではなく、いろいろな道具が開発されているのだから、使うべきなのだ。使わないのは、むしろ、怠慢とさえ思える。好き嫌いを言ってる場合ではない。会社でパソコンを使えなければ仕事がなくなるように、eラーニングも使えなければ教員を廃業するくらいの真剣味が必要だ。小規模でしか授業ができないというのは、教員の身勝手にさえ思える。



2012年11月1日木曜日

マンモス授業は必要悪か(1)

かつて、大学は、マンモス大学、マスプロ教育といわれ、大講義室での授業に対して、批判されることが多かった。確かに、一方通行の講義、黙って聞くだけ、黒板を写すだけの授業に、これで教育なのかとも言われた。もちろん、大量生産、大量消費の時代の反映として批判された。その後、マンモス授業は好ましくない、少人数が良い、ゼミはもっとよい、に多くの大学が切り替えた。
しかし、それは本当に正しいのだろうか。たとえば、武蔵でも200人を上限にしようと決めている。しかし、ほんとうに、それでいい授業ができるのだろうか、と実は疑問に思っている。
その第一は、人数が少ないのは、必要条件かもしれないが、十分条件ではないことである。教員に教える技術、意欲が伴わなければ、人数だけ少なくしても、何も変わらない。
多くの学生が殺到するような授業であれば、学生の興味も高く、それにうまく応えるというのが、大学の、もうひとつの責任であると思う。単に、時間割の都合だけで履修するわけではないだろう。
経営の観点からも、一人の教員が、多くの学生に学ぶ機会を提供し、そして、多くの学びができるのであれば、教室の大きさ、履修生が多いということは、却って生産性を高め、効果的なのではないだろうか。
私は、結果としてそんな授業を目指してきた。結果としてというのは、それを目的としていたわけではないが、今も、300人の授業、3年前は600人の授業を実施してきたからである。しかし、学生の満足度、学びの自覚は決して低くなかった。多くの学生が履修を希望しているなら、喜んで、受け入れるべきだし、そこで効果的な授業をすればいいだけである。IT,eラーニングなどを活用してきたからこそ、実施できたと思っている。どんな授業だったか、次から紹介したい。