ゼミでなのを学ぶのか、専門知識という人もいるかもしれない。そのために、数学統計の基礎知識が不足していると多くの教員が嘆く。それがないのは高校教育が悪い、ゆとり教育が悪いという。また、従来では、大学に来なかったような学生が進学するからいけないともいう。しかし、先進国が生産性を高めるためには、高度知識社会に行くる事ができる社会人を増やすしかないというのは、かなりの共通認識である。つまり、これからは大学進学率は高くなるべきだというのも社会のニーズである。であれば、多様な能力、知識レベルの学生が集まるのであって、昔のように「偏差値」に従って、大学に同質、同レベルの学生があつまることを想定するのは、一部の大学のノスタルジーでしかないかもしれない。
ゼミで学ぶこと、それは、何を学ぶのにも共通した学び方を学ぶのだといっている。そしてそのためには、まず、なぜ学ぶのかを自分で納得することが大事だと思っている。
知識を学ぶには、抗議で十分かもしれない。実習形式の実践的授業も整備されている。多くの科目が準備され、それこそカフェテリアにいって、自分で選べるようにカリキュラムは用意されている。確かに、これで十分かもしれない。しかし、どうして、勉強に意欲が向かないのか、学んだ知識が身につかないのか、それは、なぜん勉強するのかという意欲、いや納得感がないからである。単位のためだったら試験が終われば忘れても構わない。卒業したら、大學で勉強したことは役に立たないとうそぶいても構わない。
しかし、多くの卒業生は、在学中にもっと勉強しておくんだったと、口をそろえていう。何が間違っているんだろうか。大學で学ぶことは実はたくさんあり、そこでの知識は無駄ではないし、現実には実務にいれば、有用であることがわかってきたのであろう。だったら、それを知ってもらう方がいい。それは講義ではなく、ゼミの役割である。つまり、なぜ学ぶのかと、どう学ぶのかを学ぶ授業だからである。
その中心は、ディスカッションであることは間違いない。それは、教員から聞いたことを疑うことなく吸収するという態度から、ゼミ仲間が調べてきたことを疑い、もっと正しいことがあるのではないかと、考える癖をつけることを求められるからである。
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