ゼミ活動は、チームワークを学ぶことが、もっとも重要な教育の場である。ここにはチームつくりとチーム運営の2つがある。
どんな仲間とチームを作るのがいいか、それは多くの教員が悩んでいるテーマである。私も、いろぴろと試みてきた。学生番号順に分け、偶然のチームにする、もちろん、あみだくじという方法もある。じゃんけんもやったことがある。学生に任せると、これを選ぶことが多い。
最近は、チームを編成する前に、希望テーマを考え、掲示板に書いてもらい、それをもとに、似たようなテーマを挙げた学生たちの組み合わせで、チーム分け、をしている。
いつもながら、チームつくりに、私は関与しないことにしている。チーム分けの担当者を2人くらい指名し、任せる。絶対に、決めたことに文句はいわない。任せたのだから。これは結構、忍耐がいるし、教員によっては、それは教員に責任を放棄しているというかもしれない。しかし、大事にしたいのは学生と教員の信頼関係を守ることなのだ。任せると言ったら絶対に任せる、ケチをつけたとたん、次から教員の顔をみて、ものを決めようとし、自分たちの考えを制限してくる。大事なのは、自分で考え意見と主張をつくり、それに責任を持つことである。自分たちで決めたことなのだから、責任もって運営がうまくいくように、協力する、という基本を体得することがなにより重要と思っている。
2013年1月14日月曜日
ゼミ授業をどう活性化するか(6)教員に期待される役割
教員は、学生を教える立場、役割だとすれば、専門知識を豊富に持っていて、多くの知識を伝えることができて、どんな質問にでも答えられる、そんなイメージがあるかもしれない。
しかし、少なくてもゼミではそんな役割を担うのが教員でないことは確かである。知識は学生が自分から獲得することがゼミだからである。
そういう意味では、教員はコーチ、応援団に近い。よく、私は外部にも言っているが、あほな教員ほど、学生はよく育つと。実際に、ゼミ大会の準備など、細かく指示することはないし、知識を教えることもほとんどない。さくさくと学生が進めるし、計画もリーダーが立案し、私に相談する時もあるし、しないときもある。こちらが聞くのは、リハーサルはいつにするの、2回くらいはしようという程度だ。もちろん、それは優秀な学生さんがそろっているからと、皮肉を言われることさえある。
しかし、忘れないことがいくつかある。まず学生を、仲間、パートナーだと思い決して上から目線では見ないことである。だからこそ、心から学生に尊敬の念をもって接している。社会人でさえ、チームをまとめるのは難しい仕事だ。それを、学生がうまくまとめるのを見て、本当に感銘することが何度もあった。
ある時は、締切日を示したら、リーダーが、みんな、やるっきゃなだろうと、サクサク、予定をつくり、みんなの集まる日を決めていた。授業以外に集まるなんて、私が指示・命令したことは今までない。目標を提示して、あとは学生が自分たちで考えている。
そんなリーダー、メンバーが動きやすいように配慮することはあっても、絶対に、気持ちを落とすこと、発言、学生の気持ちを損なうことをしないこと、やる気の邪魔をしないことが教員の最低限のマナーだと思っているからである。
しかし、少なくてもゼミではそんな役割を担うのが教員でないことは確かである。知識は学生が自分から獲得することがゼミだからである。
そういう意味では、教員はコーチ、応援団に近い。よく、私は外部にも言っているが、あほな教員ほど、学生はよく育つと。実際に、ゼミ大会の準備など、細かく指示することはないし、知識を教えることもほとんどない。さくさくと学生が進めるし、計画もリーダーが立案し、私に相談する時もあるし、しないときもある。こちらが聞くのは、リハーサルはいつにするの、2回くらいはしようという程度だ。もちろん、それは優秀な学生さんがそろっているからと、皮肉を言われることさえある。
しかし、忘れないことがいくつかある。まず学生を、仲間、パートナーだと思い決して上から目線では見ないことである。だからこそ、心から学生に尊敬の念をもって接している。社会人でさえ、チームをまとめるのは難しい仕事だ。それを、学生がうまくまとめるのを見て、本当に感銘することが何度もあった。
ある時は、締切日を示したら、リーダーが、みんな、やるっきゃなだろうと、サクサク、予定をつくり、みんなの集まる日を決めていた。授業以外に集まるなんて、私が指示・命令したことは今までない。目標を提示して、あとは学生が自分たちで考えている。
そんなリーダー、メンバーが動きやすいように配慮することはあっても、絶対に、気持ちを落とすこと、発言、学生の気持ちを損なうことをしないこと、やる気の邪魔をしないことが教員の最低限のマナーだと思っているからである。
ゼミ授業をどう活性化するか(8)目標管理
ゼミを、通常の研究活動の推進というだけでは、どうも、成長への実感を共有できないという悩みをかねてから持っていた。ゼミには専門知識の獲得という目的は確かにあるが、それだけではない。成長すること、とりわけそれを本人が実感することが大事と思っている。
振り返りシートで、たとえば、学生がこう言ってくれる。
極端なことを言えば、成長実感とは、私たち教員が、成長したことを客観的に評価するよりも、本人が、成長したと実感することの方が、何倍も価値がある。それは、成績を、S,A,Bとつけることには代えがたい意義がある。ゼミを、過去の評価をするというよりも、次の行動に結び付ける動機づけにしたいと思うからである。とりわけ、ほとんどの学生は、社会にでて、自分で自分の道を切り開かねばならない。私たち教員がどう評価するという以上に、本人が、自分を評価する目や意識を持てば、授業の評価などは小さい小さい。そのための目標管理なのであり、それを「振り返りシート」が担ってくれている。
振り返りシートで、たとえば、学生がこう言ってくれる。
「目標がなかった前期は授業をやらされている感じでしたが、目標ができた後期は、その目標を達成するために一つ一つの授業を進んで取り組めました。」
これは振り返りシートを取り入れた意義を素直に認めてくれていることの証拠であると思っている。目標が大事ということを実感することは、なにより大きな成長実感であろう。
2013年1月8日火曜日
ゼミ授業をどう活性化するか(7)調査
ゼミの活動のかなりの部分は調査である。ひらたくいえば、調べ学習である。しかし、ゼミで大事なのは、そして学ぶというのは、調査してどうするのか。というそのあと作業にかかわってくる。
ここが意外にあいまいなことが多い。
調査というちすぐに学生はインターネットにアクセスしようとする。しかし、それは間接情報であることを、しっかりと知ってもらいたい。つまり、だれかが調べた情報なのだ。そこには、その誰かが分析したり、解釈した意見が入り込んでいる。しかし、それはなかなか理解できない。そのくらい、今の時代、情報があふれているのである。それをつなぎ合わせれば、何か、調べたことになるように誤解しやすい。ネットに多くの人が書いているからといって事実とは限らない。誰かが書いたものを他の人が見て、それを写したり、意見を添えて書いているだけかもしれないからだ。
足で調べる楽しさと、苦しさを、この過程で体得できる。
たとえば、ゼミのテーマでコンビニを取り上げることは定番である。そこでどんなIT化を実施しているか、調べてこいという。そのとき、自分で商品を買って、どんなレシートがもらえるかじっと観察間することを体験してもらう。また、店員や店長さんに聞いてきてもらう。この店ではどんなIT化をしているのかと。店員もきっときょとんとしているに違いない。ゼミの調査研究だからといって、聞いて来いという。ほんとうに聞いてくる。その「はらはらどきどき」感は重要な経験である。
調査したこと報告しなければならない。それは最終的には論文の一部になるはずである。
調査報告をきちんと文章化出来ることは大きな能力である。だから、書けるようになることは、重要なスキルアップにつながるからゼミでも重視している。
自分の意見を主張するというのは、感想を述べることとは大きく違う。まず、そこからスタートだ。
ここが意外にあいまいなことが多い。
調査というちすぐに学生はインターネットにアクセスしようとする。しかし、それは間接情報であることを、しっかりと知ってもらいたい。つまり、だれかが調べた情報なのだ。そこには、その誰かが分析したり、解釈した意見が入り込んでいる。しかし、それはなかなか理解できない。そのくらい、今の時代、情報があふれているのである。それをつなぎ合わせれば、何か、調べたことになるように誤解しやすい。ネットに多くの人が書いているからといって事実とは限らない。誰かが書いたものを他の人が見て、それを写したり、意見を添えて書いているだけかもしれないからだ。
足で調べる楽しさと、苦しさを、この過程で体得できる。
たとえば、ゼミのテーマでコンビニを取り上げることは定番である。そこでどんなIT化を実施しているか、調べてこいという。そのとき、自分で商品を買って、どんなレシートがもらえるかじっと観察間することを体験してもらう。また、店員や店長さんに聞いてきてもらう。この店ではどんなIT化をしているのかと。店員もきっときょとんとしているに違いない。ゼミの調査研究だからといって、聞いて来いという。ほんとうに聞いてくる。その「はらはらどきどき」感は重要な経験である。
調査したこと報告しなければならない。それは最終的には論文の一部になるはずである。
調査報告をきちんと文章化出来ることは大きな能力である。だから、書けるようになることは、重要なスキルアップにつながるからゼミでも重視している。
自分の意見を主張するというのは、感想を述べることとは大きく違う。まず、そこからスタートだ。
2013年1月7日月曜日
ゼミ授業をどう活性化するか(5)論文作成-2
みんなに、文章を書くことは、得意か、好きかと問うと、必ず苦手だと答える。この時、自分も、苦手だったし、嫌いだったと率直に言うことにしている。現に、高校生くらいまで、嫌いだったし、もちろん、書けなかったし、成績も悪かった。
それがなんとか書けるよう、また、文章を書くことが商売道具になったのは、たとえば、太宰の人間失格などの小説を読むようになったからだと思う。つまり、ええ恰好しいするのではなく、思ったことを、そのまま書いていいのだと気づいたからである。
問題は感想文から、論文へのジャンプをどう身に着けるかである。それを、「私(だけ)が思うから、みんなそう思う(はず)」だ、という文章の書き方をしないよう意識することである。
それは、学生には、感覚で文章を書くことから、技術で文章を書くことの違いだと説明している。技術で書くということは、文章を書けないのは、素質がないからでもなく、まして能力がないからでもなく、書き方を知らないだけだから、訓練すれば、だれでも、少なくとも、多くの学生が書けるようになるはずだといって、まずは安心してもらう。そして、、努力すれば身につくのだと、気づいてもらおう。
文章には、柔らかい文章と、硬い文章がある。どっちがいいというのではなく、どっちも書けるのがいいに決まっている。文章の書き方は一様ではない。飛んでいる文章、ゆったりとした文章、沈んでいる文章、走っている文章、アップダウンの多い文章、そして心が前にで文章、心が後ろに潜んでいる文章もの、などなど、多様であってよい。大事なのは、学生が、いろんな書きかたを身に着け、どれにするかを選べるようになってほしいのだ。
論文、それはもちろん、硬く書くのだ。
それがなんとか書けるよう、また、文章を書くことが商売道具になったのは、たとえば、太宰の人間失格などの小説を読むようになったからだと思う。つまり、ええ恰好しいするのではなく、思ったことを、そのまま書いていいのだと気づいたからである。
問題は感想文から、論文へのジャンプをどう身に着けるかである。それを、「私(だけ)が思うから、みんなそう思う(はず)」だ、という文章の書き方をしないよう意識することである。
それは、学生には、感覚で文章を書くことから、技術で文章を書くことの違いだと説明している。技術で書くということは、文章を書けないのは、素質がないからでもなく、まして能力がないからでもなく、書き方を知らないだけだから、訓練すれば、だれでも、少なくとも、多くの学生が書けるようになるはずだといって、まずは安心してもらう。そして、、努力すれば身につくのだと、気づいてもらおう。
文章には、柔らかい文章と、硬い文章がある。どっちがいいというのではなく、どっちも書けるのがいいに決まっている。文章の書き方は一様ではない。飛んでいる文章、ゆったりとした文章、沈んでいる文章、走っている文章、アップダウンの多い文章、そして心が前にで文章、心が後ろに潜んでいる文章もの、などなど、多様であってよい。大事なのは、学生が、いろんな書きかたを身に着け、どれにするかを選べるようになってほしいのだ。
論文、それはもちろん、硬く書くのだ。
ゼミ授業をどう活性化するか(6)教員は何をするのか
学生が主体のゼミだったら、では、教員はなにをすればいいのか。ひま、しているということにしている。絶対にこちらから、聞かれない限り、知識を与えようとしないこと、これはかなり忍耐がいる。いわば教えることが教員の役割だと長い間、過ごしてきているのに、いまさら、教えないで教員が務まるのかと多くの教員が思うに違いない。厳密に言えば、喋りはするけど、上から目線で、知識を伝えることをやめるのであって、ただ、黙って学生の好きなようにさせるるわけではない。
驚異の一番大事な仕事は、ファシリテーターという役割で、学生が主体的、つまり自分から動き出せるよう、そして、このゼミ授業で成長できるよう、縁の下のちからもちに徹することである。
求められていない知識を提供しても、ありがたがらないし、すぐ忘れる。しかし、自分で欲した知識は、身体にしみこむ。そうしたいのだ。
そのために、教員がなによりしなければならない仕事は、学生をよく観察することにつきる。ゼミになじんでいるか、楽しんでいるか、自分を動かそうとしているか。逆にいえば、孤立していないか、パソコンに向かっているだけで、仲間と話すのをさけていないか、リーダーを無視していないか、リーダーが、独走していないか、などなどを注意して観察することである。
学生は様々である。いろいろな学生がいる。活発な子、おとなしい子、熱意があるのにうまく自分を前に出せない子、芯の強い子、女の子に多い強気だけれどさびしがり屋、それぞれに対応を変えたい。こちらから声をかけたほうがいい子、向こうから声をかけさせるように仕向けたほうがいい子などなど。
ファシリテーターという難しい名前より、「学びのカウンセラー」というほうがピッたしだ。これが、これからの教員の役割を一言で表している。
驚異の一番大事な仕事は、ファシリテーターという役割で、学生が主体的、つまり自分から動き出せるよう、そして、このゼミ授業で成長できるよう、縁の下のちからもちに徹することである。
求められていない知識を提供しても、ありがたがらないし、すぐ忘れる。しかし、自分で欲した知識は、身体にしみこむ。そうしたいのだ。
そのために、教員がなによりしなければならない仕事は、学生をよく観察することにつきる。ゼミになじんでいるか、楽しんでいるか、自分を動かそうとしているか。逆にいえば、孤立していないか、パソコンに向かっているだけで、仲間と話すのをさけていないか、リーダーを無視していないか、リーダーが、独走していないか、などなどを注意して観察することである。
学生は様々である。いろいろな学生がいる。活発な子、おとなしい子、熱意があるのにうまく自分を前に出せない子、芯の強い子、女の子に多い強気だけれどさびしがり屋、それぞれに対応を変えたい。こちらから声をかけたほうがいい子、向こうから声をかけさせるように仕向けたほうがいい子などなど。
ファシリテーターという難しい名前より、「学びのカウンセラー」というほうがピッたしだ。これが、これからの教員の役割を一言で表している。
2013年1月6日日曜日
ゼミ授業をどう活性化するかーゼミ授業の基本、ゼミで何を学ぶのか
ゼミでなのを学ぶのか、専門知識という人もいるかもしれない。そのために、数学統計の基礎知識が不足していると多くの教員が嘆く。それがないのは高校教育が悪い、ゆとり教育が悪いという。また、従来では、大学に来なかったような学生が進学するからいけないともいう。しかし、先進国が生産性を高めるためには、高度知識社会に行くる事ができる社会人を増やすしかないというのは、かなりの共通認識である。つまり、これからは大学進学率は高くなるべきだというのも社会のニーズである。であれば、多様な能力、知識レベルの学生が集まるのであって、昔のように「偏差値」に従って、大学に同質、同レベルの学生があつまることを想定するのは、一部の大学のノスタルジーでしかないかもしれない。
ゼミで学ぶこと、それは、何を学ぶのにも共通した学び方を学ぶのだといっている。そしてそのためには、まず、なぜ学ぶのかを自分で納得することが大事だと思っている。
知識を学ぶには、抗議で十分かもしれない。実習形式の実践的授業も整備されている。多くの科目が準備され、それこそカフェテリアにいって、自分で選べるようにカリキュラムは用意されている。確かに、これで十分かもしれない。しかし、どうして、勉強に意欲が向かないのか、学んだ知識が身につかないのか、それは、なぜん勉強するのかという意欲、いや納得感がないからである。単位のためだったら試験が終われば忘れても構わない。卒業したら、大學で勉強したことは役に立たないとうそぶいても構わない。
しかし、多くの卒業生は、在学中にもっと勉強しておくんだったと、口をそろえていう。何が間違っているんだろうか。大學で学ぶことは実はたくさんあり、そこでの知識は無駄ではないし、現実には実務にいれば、有用であることがわかってきたのであろう。だったら、それを知ってもらう方がいい。それは講義ではなく、ゼミの役割である。つまり、なぜ学ぶのかと、どう学ぶのかを学ぶ授業だからである。
その中心は、ディスカッションであることは間違いない。それは、教員から聞いたことを疑うことなく吸収するという態度から、ゼミ仲間が調べてきたことを疑い、もっと正しいことがあるのではないかと、考える癖をつけることを求められるからである。
ゼミで学ぶこと、それは、何を学ぶのにも共通した学び方を学ぶのだといっている。そしてそのためには、まず、なぜ学ぶのかを自分で納得することが大事だと思っている。
知識を学ぶには、抗議で十分かもしれない。実習形式の実践的授業も整備されている。多くの科目が準備され、それこそカフェテリアにいって、自分で選べるようにカリキュラムは用意されている。確かに、これで十分かもしれない。しかし、どうして、勉強に意欲が向かないのか、学んだ知識が身につかないのか、それは、なぜん勉強するのかという意欲、いや納得感がないからである。単位のためだったら試験が終われば忘れても構わない。卒業したら、大學で勉強したことは役に立たないとうそぶいても構わない。
しかし、多くの卒業生は、在学中にもっと勉強しておくんだったと、口をそろえていう。何が間違っているんだろうか。大學で学ぶことは実はたくさんあり、そこでの知識は無駄ではないし、現実には実務にいれば、有用であることがわかってきたのであろう。だったら、それを知ってもらう方がいい。それは講義ではなく、ゼミの役割である。つまり、なぜ学ぶのかと、どう学ぶのかを学ぶ授業だからである。
その中心は、ディスカッションであることは間違いない。それは、教員から聞いたことを疑うことなく吸収するという態度から、ゼミ仲間が調べてきたことを疑い、もっと正しいことがあるのではないかと、考える癖をつけることを求められるからである。
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